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Taipei Confucius Temple Confucian Culture

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Number 1.仲由、total 1 picture

仲由

仲由は字は子路または季路といい、春秋時代魯国の卞邑に生れた、孔子の久歲しか違わない高弟であつた。極めて孝行で、何時の百里外の遠所から米を背負つて家鄉に帰り、両親を養つた。彼は勇者である反面、他人の忠告を虛心に接納する雅量を持ち、そして自らは惮らず発言し、周囲の人に意見する個性で、孔子に問われて真先に答え、孔子に過ちがあれば敢えて諫めるのは決つて彼であつた。子路は、孔子が費の町に拠つて鲁の朝廷nい谋反した公山弗优の招聘に応じよえとした時、反对して止めさせ、また孔子が衛国で美貌。淫乱の王妃南子に謁見した際も、激しく非難した。だが子路は一番孔子を敬い、孔子も子路は大変可愛がり、もし孔子の悪口を言う者がおれば、子路は命がけでこれと爭つた。それで孔子は、「子路を弟子にしてからは、あまり自分の悪口を聞かなくなつた」と述懷したことがある。孔子と子路の師生の情をキリストと使徒べテロに比する者もおる。子路は始め季孫氏の執事となり、孔子が魯の国政の衝に当つた時分、三桓子の城堡を毀つ政策を助け、 孔子の諸国遊歷にも隨行し、晚年になり衛の国に出仕したが、公室の內乱に卷き込まれて、非業の最後を遂げた。享年六十三、孔子の歿する一年前にあたり、孔子はその死をいたく悲しみ、「天はわたしに破滅をあたえた」と嘆いた。

参考文献:台北孔子廟の出版物《孔廟大成殿聖賢略傳》
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